広島は1589年、毛利輝元による築城から始まった城下町です。戦災で多くの歴史的建造物は失われましたが、町割りや地名、そして人々の暮らしの中に、400年の歴史は今も確かに息づいています。城下町広島の歴史を紐解きながら、その面影を探る旅へご案内します。
Contents
広島城:城下町の心臓部
築城から発展へ
広島城は、デルタ地帯という特異な場所に築かれた平城です。三角州の地形を巧みに利用し、六つの川に囲まれた要害として機能しました。築城当時、この地は「平地に海を引き入れたような」と形容されるほどの水郷地帯でした。
毛利氏の時代から、福島氏、浅野氏と城主は変わりましたが、広島城は一貫して城下町の中心として存在し続けました。特に浅野氏の時代には、石垣や堀の整備が進み、現在に近い姿となりました。
城下町の拡大
城を中心に、武家屋敷、町人町、寺町が同心円状に配置される典型的な城下町の構造を持っていました。特に注目すべきは、デルタ地帯の低湿地を埋め立てながら発展していった都市計画の巧みさです。
武家屋敷跡に刻まれた記憶
上級武士の居住地
現在の中区基町辺りには、かつて上級武士の屋敷が立ち並んでいました。基町の地名自身が、城下の「基」となる重要な場所であったことを示しています。
現在は高層住宅が建ち並びますが、道路の区画や石垣の一部には当時の面影が残されています。特に、広島県庁近くに残る石垣は、武家屋敷の庭園を構成していた重要な要素でした。
中・下級武士の町
小町や竹屋町といった地名は、かつての武家屋敷の区画を今に伝えています。これらの地域では、碁盤の目のような整然とした町割りが、今でも道路網として残っています。
町人文化が花開いた街角
商人町の賑わい
八丁堀や堀川町は、江戸時代から商人の町として栄えました。特に八丁堀は、その名の通り八町四方に広がる広大な商業地区で、現在も広島の商業の中心地として機能しています。
職人町の技
京橋町や革屋町といった地名には、かつてその地で営まれていた職人たちの生業が刻まれています。特に、革屋町では皮革加工の職人たちが集住し、その技術は明治期まで受け継がれました。
城下町の食文化を探る
水運がもたらした豊かな食
城下町広島の食文化は、瀬戸内海からの海の幸と、太田川がもたらす川の幸に恵まれて発展しました。特に、牡蠣の養殖は江戸時代から行われ、城下町の重要な産業の一つでした。
武家の食文化
浅野家の記録には、四季折々の献立が残されています。特に注目すべきは、地元の食材を活かした創意工夫の跡です。現在の広島の郷土料理の中にも、その影響を見ることができます。
写真で見る街の変遷
戦前の町並み
1945年以前の写像からは、城下町の面影を色濃く残す広島の姿を見ることができます。特に、相生橋から撮影された写真には、川と共に発展した水の都の様子が克明に記録されています。
現在との比較
戦後の復興で街並みは大きく変わりましたが、道路の形状や橋の位置など、都市の骨格は城下町時代のものを継承しています。特に、河岸通りや本川沿いの地区には、水運の要衝として栄えた時代の痕跡が残されています。
おすすめ史跡巡りコース
朝の部:城下町中心部コース
広島城天守閣 → 二の丸跡(現県庁) → 中央公園 → 基町の石垣跡
午後の部:町人町エリアコース
八丁堀 → 相生橋 → 京橋町 → 縮景園(浅野家の大名庭園)
歩いて感じる歴史の息吹
広島の街を歩く時、地名や道筋に注目してみてください。京橋町、革屋町、紙屋町といった町名には、かつてその地で営まれていた生業の記憶が刻まれています。また、碁盤の目のような整然とした道路網には、計画的に作られた城下町の特徴が今も残されています。
城下町広島は、水と共に発展してきた都市です。六つの川に囲まれた地形を活かし、水運と防御の機能を併せ持つ都市として繁栄しました。その歴史は、現代の街づくりにも大きな影響を与えています。
まとめ:受け継がれる城下町の記憶
戦災で多くの建造物は失われましたが、広島の街には確かに城下町の記憶が刻まれています。それは建物や石垣といった目に見えるものだけでなく、地名や道筋、人々の生活の中にも脈々と受け継がれています。この記事を手がかりに、あなたも城下町広島の歴史を探る旅に出かけてみませんか。
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